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静かな器
9秒。
それは、長くもなく、短くもない。
けれど、終わったあとに、何かが静かに残る。
最初から決めていたわけではなかった。
5秒、10秒、15秒。
何度も撮り、見返し、ふと、手が止まったのが――9秒だった。
「9秒しか撮れないの?」と尋ねられることがある。
けれど、「しか」という言葉には、ほんとうは限界ではなく、
必要なもの以外を手放す強さがある。
私たちは何でも撮れる時代に生きている。
でも、何でも残せるという自由は、ときに重い。
すべてを記録しようとすると、
どこかで、本当に残したいものが見えなくなる。
余白のなかにあるもの
俳句がたった17音で世界を描こうとするように。
茶室が、静けさのなかに無限をたたえるように。
9秒という時間にも、語りすぎない美しさがある。
言葉にできない揺らぎや、掴みきれない感情。
そうした曖昧さを、ただそのまま、静かに置いておく。
不完全だからこそ、
私たちはその中に、心を重ねられるのかもしれない。
記憶はいつも、断片でできている
思い出すとき、私たちは1日の全てを再生しない。
ふとした風の匂い、
何気なく見た横顔、
なぜか忘れられない会話の一節。
それらは、どれも“数秒”でできている。
記憶にとって、重要なのは時間の長さではなく、
そこに何かが宿っていたかどうかだ。

日常という、かけがえのない余白
特別な日は待たなくていい。
記念日じゃなくても、旅じゃなくてもいい。
9秒は、それらをすくいあげるための、
静かな器のようなもの。