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なぜ「不完全」が美しいのか

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なぜ「不完全」が美しいのか

なぜ「不完全」が美しいのか

なぜ「不完全」が美しいのか

『茶の本』から感じること

2025/06/09

ふと心に残っている光景がある。
きちんと意味のある時間ではなく、ただ風が吹いていたり、誰かが笑っていたり、
ほんの数秒、理由もなく、何かを感じたあの瞬間。
あとになって思い出すのは、そんな曖昧で、小さな揺らぎだったりする。
なぜだろう。
整っていないはずなのに、そこにだけ何かが“あった”気がする。

岡倉天心のことばに出会う

そんな感覚の答えになるかもしれない本がある。
1906年、岡倉天心が英語で著した『茶の本』。
お茶の文化を通して語られるのは、
「何が正しいか」ではなく、「何を大切にするか」という問い。
そこにあるのは、装飾を減らし、静けさを受け入れるような、
どこかやわらかいまなざしだった。

整いすぎないものに惹かれる理由

天心は、ひびの入った器や、ゆがんだ形の茶碗にこそ美しさがあると語る。
新品のような完成ではなく、どこか未完成なもの。
そうしたモノには、「余地」がある。
触れた人の記憶や時間が、自然に染み込むすき間がある。
完璧なものは、それ以上触れる必要がない。
でも、不完全なものには、どこか“入り込む場所”がある。

侘びと寂びのまなざし

「侘び」は、不足の中にある豊かさ。
「寂び」は、時間によって深まっていく味わい。
たとえば、擦り減った木の床、長く使われて少し傾いた椅子。
どれも、過ごした時間がそのまま刻まれているような存在。
整っていないこと。
変化していくこと。
それを否定せず、むしろ美として受け取る視点が、そこにはある。

余白という静けさ

茶室の中は、驚くほど「何もない」。
けれど、その空白こそが、置かれたものの輪郭を際立たせる。
一輪の花、湯の音、風の通り道。
静かで、緊張感のある、満たされた「何もなさ」。
日々の生活に置きかえれば、
情報を詰めこまない空間や、通知の鳴らない時間をつくることかもしれない。

一期一会という時間感覚

茶道の世界には「一期一会」という言葉がある。
この瞬間は二度と戻らない。
だからこそ、いま目の前の人や出来事を、大切にする。
画面越しの記録ではなく、
その場の空気や気配に触れながら時間を過ごす。
それは、なにかを「残す」行為というよりも、
「ちゃんと生きる」感覚に近いのかもしれない。

ふと思う。

きれいに整ったものだけが、心に残るわけではない。
むしろ、不揃いで、少し曖昧で、
“何かがこぼれている”ような瞬間の方が、あとになっても消えずに残っている。
不完全なものを、未完成のまま、ちゃんと愛すること。
そこにしか現れない美しさが、たしかにあると思う。

Trends fade.  

Memories don’t. 

Trends fade.  

Memories don’t. 

Trends fade.  

Memories don’t.